確か、エコール・ド・東山を始めた頃、3回ほど雨だったり雪だったり、足元が悪い日が続いたなぁと三年前を思い出しています。遠く太平洋には梅雨もあけないのに台風が発生しているし、やたら雨の多い日が続いたにもかかわらず、最終回は晴れの日で迎えることができました。これはもう、皆さまの徳というべきでしょう。お天気の神様が、微笑んだ一日でありました。7月の発表の報告です。 
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今を生きる掛け合い歌
梶丸 岳

歌の掛け合いを文化人類学的に(フィールドワークを通して文化や社会から他者、自己を理解しようとする)研究をしているのは梶丸さんを含めて日本に二人ほど。貴重な発表を聴ける機会となりました。大学では生物化学を専攻されていたのですが、人と人とのコミュニケーションや音楽に興味があったことから、大学院では、中国の奥地に残る歌の掛け合いを研究し始めたのだそうです。今回は、掛け合い歌とはどういうものなのか、さらには、掛け合い歌を儀礼や宗教などに結び付け、高尚なものへと引き上げようとする傾向とは異なって、単なる「遊び」なのではないかという梶丸さんの考えをお話いただきました。

まず、掛け合い歌とは、ある程度一定の旋律に、即興の歌詞をつけたもの。我々はカラオケの影響で、決まった歌詞・メロディーをなぞって歌うことや、歌唱力を重視しています。けれども、昔、たとえば平安時代の貴族が詠みあった和歌のように、その時々の情景や心情によって歌詞が変わるという即興性、やりとりこそが重要で、旋律は、言葉をのせるための「容器」のようなものだと梶丸さんは言います。身振りや、音の変化(節まわし)が制限されたからこそ、掛け合い歌では、歌詞に重点がおかれるようになったと考えられるのだそうです。しかし、即興で言葉を考えるのは難しく、掛け合い歌の事例が多く残る奄美地方でも、80年代以降、歌詞よりも歌唱力が重視され、90年代では歌詞は決まり文句にさえなる傾向にあるという研究者もいるそうです。
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では実際に、掛け合い歌というのは、どのようなものなのか。まず、中国内陸部・貴州省のプイ族の映像を少しだけ見せてもらいました。さて、言葉でどう伝えたらよいでしょうか…。旋律の単調さや地声を使うところだけをとってみれば、お経かなぁ…。コール&レスポンスという点からは、労働歌とか…? ラップミュージックかなぁ…大幅な歌詞の変更ではないけれど、全国ツアーなどでは、ライブ会場によって歌手がご当地の名所や名物や方言などを取り入れて観客とやりとりすることがある、あれに近いのかもしれないけれど…。いや、違うな…。とにかく、プイ族の掛け合い歌は、単調で地味な男女の歌のやりとりが何時間(2時間から、時には5時間半…)も続けられるのだという。しかしまぁ、男女のやりとりというほど、気持ちや情欲の高まりを感じ取れるものでもありませんでしたが。その意外性、結構好きです。
これらの歌詞は、時に微妙にワードを変化させることはあるものの、基本的には、膨大な定型句のアレンジなのだそうです。したがって、気合を入れて聴いていなければ途中で意味がわからなくなる。だから、掛け合い歌に関心を持つ現地の若者たちは減っているのだとか。長時間にわたる単調かつ定型文でのやりとりは、刺激がなさすぎるのでしょう。ここまで書いて、プイ族の掛け合い歌に近いものを思いつきました。国会中継の質疑応答、これです。テレビの前の私だけでなくて、現場でさえも意識不明の先生方がいらっしゃいます。(あくまでも個人の意見です…。最近は、やや白熱しているようですが…。)
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次に見せてもらったのは、秋田県横手市の掛け歌のコンテストの様子。こちらは、「仙北荷方節」という民謡の節に、七七七五の歌詞をその場で考えて歌うもの。定型文はなく、テーマはシリアスなものから滑稽なものまで様々。何でもよいのだそうです。民謡がもとになっているだけに、音の高低やこぶしと言うのでしょうか抑揚もあって馴染みある節まわしでした。歌詞は字幕がなしではわからなかったのですが、100%即興性があるとはいえ、次はこれを言うのではないかなと予測がつくものも多いのだそうです。想像どおりのオチがくれば「そうそう、それそれ」「待ってました!」とニンマリ。意外性はないにしても…、ストンと腑に落ち、満足感を与えてくれます。(私は特に、この「偉大なるマンネリズム」が大好きです…)

さて、この掛け歌を遊びと考えるにあたって、「遊び」とは何なのか、いくつかの定義を紹介してくださいました。社交として(ジンメル)、限定性・自発性・規則性、そこから生まれる緊張と喜びの感情(ホイジンガ)、虚構と気ばらし(カイヨワ)、人と人との間を言ったり来たりする関係の在り方(西川)などを引用され、時間と場所の限定性、規則性などが見いだされる掛け合い歌が、「遊び」の定義に則るものであるというのが梶丸さんの考えです。しかし、それよりも何よりも、歌い手さんたち自身が、「楽しい」からやっているということからもそうであり、「楽しくない伝統芸能は残らない」としめくくられました。「楽しい」と思ってやり続ける人たちがいるからこそ、掛け合い歌は今も生きているのです。

しかしながら、中国でも日本でも継承者不足という問題があるようです。そうですね……平面から立体へ、二次元から三次元、果ては四次元にまで意識が飛んじゃうのではないかと思うほど、視覚や聴覚に対してめくるめく刺激が、現代では益々増加しています。タイトルにもあるように「今を生きる」伝統芸能。ビジュアルも音も単調さが特徴でもあり味わいでもある掛け合い歌・掛け歌が、今後どうなっていくのか、変化をとげるのか、維持されるのか、消えてしまうのか、気になるところです。

「人生の意味」への問いを生むこころ
浦田 悠

心理学がご専門の浦田さん。今日は、人生の意味について、これまで言われてきたこと、「究極的意味技法」を体験するワーク、自分自身の人生の意味について考えていくという流れで発表してくださいました。

これまで、小説家、心理学者、哲学者など、様々な人たちが人生について語ってきました。今回、浦田さんが紹介してくださったものを、ここにも挙げてみましょう。
・人間が唯一確信できる知識とは、人生とは完全に無意味であるということである。(トルストイ)
・生の意味や価値を探し求めるとき、その人は病気なのです。なぜならそれらは客観的に行っていずれも存在しないからです。(フロイト)
・自分自身そして他人の人生を無意味と考える人は不幸なだけでなく、生きるに値しない。(アインシュタイン)
・人生の意味が消滅したときに、その問題が解決されたことに気づく。(ウィトゲンシュタイン)
・人生には捉えきれないほどの意味がある。なすべきこと、満たすべき意味が与えられている。(ヴィクトール・フランクル)

トルストイやフロイトはネガティブ、その他の人たちは、どちらかというとポジティブ、フランクルという人は非常にポジティブ、このように様々な意見があります。分析哲学では、人生の意味について、次のような対立があると指摘されているそうです。
・(神、社会、宇宙によって)与えられるもの vs (自身が)作り出すもの
・客観的なものvs主観的なもの
・スピリチュアルなもの vs 世俗(現世)的なもの
・幸福と同じもの vs 幸福とは独立したもの(苦しさにも意味がある)
人生の意味とは、常に対立するもの、つまり、どちらとも言えないものとして考え続けられるべきものということでしょう。けれども、このように単なる対立構造ではなくて、これらが入れ子の構造になって、各々が人生の意味を捉えているというのが浦田さんの考えのようです。
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発表の中で、「究極的意味技法」について、「人がテレビを見るのは何のため?」という質問に対して答えていくことで、そのことに対する究極の意味を見出すワークを実際に体験してみました。この「○○は何のため?」という質問に対して、一般的に「~しないため」という答えが出てくると心理学的には好ましくなく、「世のため」「人のため」や「内なる願いのため(やらされるのではなく自発的に何かをしたいという目的意志)」という答えが出てくると心理的に健康なのだそうです。

そういえば、昔、同僚の結婚披露宴で、新郎が新婦をお嫁さんにしようと決意したのは、彼女と初詣に行って「何をお願いしたの?」と聞いたら「世界平和」と彼女が答えたからだと言っていて、素晴らしい人たちやなぁ…と感動したことを思い出しました。それ以来、私も神社では「世界平和」を願ってきたのですけどねぇ……。彼女と私の違いは何か。彼女にとっての人生の意味は、社会的・普遍的意味「世界平和」にあり、宗教的・霊的意味つまり信仰を持っていたからこそ神仏に願い、そのことがきっかけで新しい家族を得て関係的意味や個人的意味のある豊かな人生を送っているのだと思います。彼氏をゲットしようという下心だけの私とは違いましたね。

もうひとつ、ハッと思ったことがあるのですけれども…、私は子供の頃、何かにつけて「人に迷惑をかけてはいけない」と親に言われていたことです。その言葉は、私の生き方にかなり影響を与えているように思います。今まで気が付かなかったけれども、「人に迷惑をかけない」というのが、発言、行動、判断、決断など、諸々の物事の基準になってきたように感じます。だから、よく言えば謙虚さが身に付いたのかもしれません。最近は、年齢のせいで随分厚かましくなっていますが、概して控えめでいるほうが心地よいです。悪くいえば、いつも何となくビクついているというか、大胆さにかけるというか、人の顔色を見て生きてきたような、そんな気がします。そういう私の言動を嫌う人もいると思います。それをまた、気にしている私がいます。「~しない」というネガティブな言葉には、そんなにも大きな力があるのですね。その一方で、「人に迷惑をかけない」のだったらいいじゃないか、「別に、誰にも迷惑かけていませんけど」という横着な考えもしてきたような気がします。自身の行動を自分のためにしていない、他者の目線の反射しているような生き方だったかもしれないと、ちょっと悲しくなってきました。ちょっと横道にもそれそうですし、こんな自分をブログで晒し者にするのってどうよ、とも思うので、これ位でやめときます。

さて、この難しい問題についての発表を、人生について全く真剣に考えてこなかった私が、どうまとめたらよいのか、私にとって人生の意味とは何だろうか、そういうこと若い時にちゃんと考えていたらもっとマシな人になっていたかもしれない、どんな難しい発表だって、さら~っとまとめてしまえるような賢い人になっていたのだろうに、とかウダウダと考えていたら、梶丸さんの発表について書き終わってから三時間あまりが経ってしまいました。まるで一人掛け合い歌です。私にとって人生の意味とは、こういうことの繰り返しのような、そんな気がしてまいりました。まぁ、でも、苦しくも楽しいといいますか、「今を生きる」私、とでも言うことにしましょう。ふにゃふにゃになった脳をキュッと引き締めるのには、やはりこのブログの試練は人生の意味の一つかもしれません。
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さて、この回をもちまして、エコール・ド・東山は最終回です。社会人を経て大学院に入学した私たち主催者が、若い研究者から受けた刺激をもっとたくさんの方々に知っていただきたいという思いから始めたサロン。人生の意味を問うという壮大な内容が、発表のオオトリだったのは何とも意味深いことです。人生の意味は、ここにもあった、つまり、この三年間、この会を支えてくださった皆さまです(「関係的意味」というのでしょうか。合ってますか、浦田さん…)。私たちが普段知ることや考えたこともなかった研究をしている若くて優秀で礼儀正しい発表者の皆さま、本当に有難うございました。発表を聴きに来てくださった沢山のお客さま、本当にありがとうございました。悪天候の日もありました。きっとお忙しい日もあったでしょう。何と感謝の言葉を述べたらよいのでしょうか。拙いブログを読んで下さった皆さま、ありがとうございました。そして、会場設営やお茶の準備、その他心づくしのサービスを黙々としてくださり、夕方の営業が始まるというのにいつまでも会場に居続ける私たちを許してくださったバーの皆さま、いつも美味しいケーキを用意してくださったパティシエの皆さま、まるで自分のリビングのように会場を自由に使わせてくださった総支配人と総支配人秘書のお二方、本当に有難うございました。もう、「感謝」という言葉に尽きます。

でも、でもですよ、終わりは始まりでもあります。「人生はまだ終わらない。何度でもやり直せる」と先日見たミュージカルでも歌っていましたし、自分の人生の意味をもう一度考え、再スタートもあり!今回、知己を得た皆さまと、またいつか何かしらの形で再会できることもあるのではないか、そんな希望を私は人生の意味のひとつに挙げて、エコール・ド・東山とこのブログを終わりたいと思います。

今月のケーキ
ミルフィーユ カスタードにはブランデーを、ソースは旬のイチジクに白ワインを加えて、大人な香りに。
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今月のお花
なんと!リピーター(皆勤)のO様が、最後にお言葉をくださり、ジェントルメンから、主催者の5人にお花をいただきました。それを見て涙してくださったNさま、ううぅっ、感無量でしたぁ~っ!!
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