今年もゴールデンウィークに突入いたしました。暖かくなりましたので、いろいろなご予定をたてられているのではないでしょうか。エコール・ド・東山 5月の会は、5月9日土曜日に開催します。内容は、次の通り。ブログ後半には、4月の報告を掲載しております。

開催日: 2015年5月9日 14:00~16:00 (開場13:30)

機械と人間の境界――人造人間ゴーレムの伝説――
中岡 翔子
京都大学大学院 人間・環境学研究科 研修員
和歌山大学非常勤講師                                             
「人体は自らゼンマイを巻く機械であり、永久運動の生きた見本である」とは、18世紀の書物の言葉です。これは、人間を特別視せず、科学的な「機械」の一つとして捉えた新しい視点でした。では、科学をつきつめれば、機械は人間になれるのでしょうか。このことは、人間が人間を作ることができるのかという問題と関係しています。そこで、旧約聖書から現代のサブカルチャーにまで受け継がれる人造人間ゴーレムの伝説を例にとり、人間という存在に迫りたいと思います。

日本語にみられる否定の多様性
久保 圭
京都大学大学院 人間・環境学研究科
博士後期課程 研究指導認定退学
大阪大学/京都大学/龍谷大学 非常勤講師                                  

従来の言語学における否定の研究は、「ある」に対する「ない」という論理学の価値観に基づいて行われてきました。しかし、日本語を観察すると、否定には様々なパターンがあることがわかります。例えば、私たちは「理解していないこと」を「無理解」と表せますが「非理解」とはまず言いません。このような否定表現の多様性や違いから、日本語の豊かさを紹介したいと思います。

開催場所: 
ハイアット リージェンシー 京都 地下1Touzanバー605-0941 京都府京都市東山区三十三間堂廻り644番地2
http://kyoto.regency.hyatt.jp/ja/hotel/our-hotel/map-and-directions.html
ご予約:
各回定員20名 参加料3000円(茶菓子付)
お申込みは、メールまたは電話にてお願いいたします。
電話番号: 090-6662-0360
定員になり次第、受付を終了させていただきます。
どうぞお早目のご予約を!
ecoledetouzan@hotmail.co.jp


◇■◇■◇4月の報告◇■◇■◇

みなさま、ゴールデンウィークをどうお過ごしでしょうか?なかなか良いお天気がつづいていますね! 大変遅くなりましたが、4月の発表の報告をさせていただきます。 


死を覚える

M.ハイデガーの思想から─

 松本 直樹

 

 みなさま、この空恐ろしい(?)タイトルを見て、どのようなことを思い浮かべますでしょうか?あるいは、M.ハイデガーという名前を聞いただけで、なんだか重くて、難しそうで、がんじがらめになって、息苦しくなってきていませんか?

 そうなのです。ハイデガーって見た目にもそれは、それは恐ろしい感じのひとなのです。ちなみに、こんなお顔です。じゃ~ん。

heidegar

 柔和でこころの謙った発表者の松本さんが、なぜにまたこんな怖そうなひとの哲学をやるのか?不思議に思ってみていました。すみません、素人な見方で。でも、ほんとうに松本さんって謙虚でと~ってもお優しい方なのです。

 そんな松本さんが、M.ハイデガーの研究をなぜはじめられたのか、そこのところをいちばんお聞きしたかったのですが、主催者は忙しくしていてとうとう聞きそびれてしまいました。その代わりといっちゃあなんですが、わたくしの妄想はふくらんでいきました。

 松本さん、その優しいお顔に反して、けっこうM.だったりするのかしら?(すみません、下世話な想像力で) 人生、悩みに悩んで苦悩の連続だったのでしょうか? 青年期に大失恋しちゃって人間不信になった?なんて。(松本さん、ごめんなさい)

 でも、じつは、こういう想像をしちゃうわたくしは、少なくともその部類の人間なのです。不覚にも、哲学を志そうとした時期がございました。文学畑から哲学に方向転換しようとするわたくしに、当時の指導教官からは、「生きるということがそんなにつらいからですか?(だから哲学なんてしようとしているのか)」と問われたことがございます。そのとき、「人生、つらいと思うことがない人間なんているか!つらく悲惨だと思える、そこに人間の尊さはあるのではないか、だから考えたいのだ!」(ちょっとパスカル的になっていましたが・・・)と、青二才のわたくしは思ったものです。

 ご存知のとおり、日本を代表する哲学者の西田幾多郎は、哲学は「驚き」が出立点であるといったデカルトに対し、わが方は「悲哀」からはじまる、と言ったそうです。ちなみにパスカルは「悲惨」だったかな。 

松本さんもおっしゃっていましたが、ハイデガーは、「在る」ということを徹底的に問うていった哲学者です。ハイデガーの用語である「現存在」Daseinは、あらゆる存在者のなかでも人間だけが、存在そのものに驚き、「存在とは何か?」を問うていくことができるということを表現しています。そこから、ハイデガー哲学がまさに開陳されたのですよね。

このように哲学者によって、その出立点は違うにせよ、人間存在ならではのいわば根本的経験によって、哲学が生まれてくる、ということができるでしょう。

ですが、このような根本的経験は、崇高な哲学者の専売特許ではなくて、わたくしたちにも一度や二度は、ありますよね。じつは、それこそが、エコール・ド・東山の哲学シリーズが、人気を博している、隠れた理由なのだと、わたくし分析しております!

すみません。話は主催者側の関心にそれていってしまいました。ハイデガーのお話にもどってみましょう。

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松本さんによれば、ハイデガーのいう「現存在」とは、つねに「不安」という根本的な気分を持つものだそうです。ここでいう「不安」とは、一般的にいう漠然とした落ち着かない気分をさすのではありません。人間とは、「不安」を忘れようとして世間の動きに没入しようとします。ですが、たとえば、死や良心といったものが人間に「不安」を自覚させ、人間を「本来的自己」に引き戻そうとします。みなさま、こういった経験はございませんか?きっとおありですよね?  このような存在をハイデガーは、「現存在」と呼んだのです。ただし、大方の人間は、やはり、「不安」を忘れてしまおうと世間の動きに没入しようとします。これを、ハイデガーは「気晴らし」と呼んだのですが、わたくしなんて人生「気晴らし」だらけの人間です(苦笑)。

ただし、ただしですよ、先ほども言ったように、人間には誰にでも死の恐怖やどうしようもない苦しみや苦悩に苛まれることが、一度や二度はあるはずです。そういった、いわば根本的経験をすることによって、人間は哲学者たりうる可能性を秘めているわけです。あっ、ここはあくまでも、わたくしの解釈です。わたくしも、若き頃、その根本的経験とやらをしてしまったものですから、そこでどうしても哲学の世界に惹かれたのですね。

松本さんを囲む茶話会のときに、参加者のみなさま方にも、そのような片鱗が見え隠れいたしました。あんなにエキサイティングな茶話会も珍しかったと思います。みなさん、哲学の出立点を各々にお持ちなのだなぁと感じました。お一人お一人が「現存在」Daseinなのだと。その光景が今も目に焼きついております。

さいごに、なぜ、「気晴らし」ばかりのわたくしが、いまだ哲学を大切に思うか、といいますと。それは、「本来的自己」ということをついつい忘れて、というかほとんど忘れて人生を送ろうとしているからです。人間は喉もと過ぎれば・・・などといいますが、そ、そ、それです!若かりし頃、純粋に「現存在」的な志向性を志したわたくしは、物事を深く感じ深く考え、そこから生きようとしていました。今となっては、過去の産物となってしまいましたが、それでも、その経験があるからこそ、〝今が在る〟と思えるのです。そんなことを松本さんに思い出させてもらったご発表でした。「現存在」Daseinに乾杯!!

そして、松本さん、参加者のみなさま、心より感謝申し上げます。

Herzlichen Dank!

二つめの発表は、1920年代から1970年代の間に活動をしたイタリアの技術者・建築家であったピエール・ルイジ・ネルヴィについてのお話でした。


ピエール・ルイジ・ネルヴィの挑戦
――建築家とエンジニアという立場から――

木村 智


発表者の木村さんは一級建築士として働いておられた経験の持ち主。東日本大震災で被害を受けた女川町の建物が流され、その土台だけが残っていたことから、土木(土地整備などの基礎工事)と建築(建物の建設)の乖離を目の当たりにして、土木と建築のあるべき姿を探る第一歩として、ネルヴィを研究することになったのだそうです。というのも、ネルヴィは、みずからエンジニアとして構造に携わり、また施工会社を設立することで、建築家、構造家、建設業の三者を繋ぐ役割を果たしたからでした。
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 「グルッポ7」と呼ばれていた合理主義建築家たちと同様、ネルヴィは合理主義建築家と評されてきました。しかし、グルッポ7は建築も芸術も合理的であると捉えたのに対して、ネルヴィは芸術を合理的ではないと述べてきたこと、また、グルッポ7は、個人主義の放棄を主張したのに対し、ネルヴィは個人の着想、想像、役に立たない何かが、芸術には必要であると述べたこと(『建築家の問題』1933年)などから、それぞれの言説に食い違いがあるということが見いだされたというということが、木村さんの発表のまとめでした。ネルヴィの基盤にあったのは、先月の白幡さんの発表でも紹介されたローマのウィトルウィウスによる『建築十書』で述べられた「真の建築家」でした。古代ローマ人は、建築を土木技術、機械技術、造幣技術など技術一般を含めたものと捉えていました。ウィトルウィウスもまた、実技と理論の両方を会得した者こそ真の建築家であると述べていたのです。さらに、ウィトルウィウスは、「建築」とは「用・強・美」の三つの要素を備えたもので、「用」は平面の計画(プランニング)、「強」は構造学で、これら二つはいずれも実技の知識、最後の「美」は造形表現(デザイン)で理論であると述べていました。ネルヴィの活動を概観すると、技術家(構造家)に始まり、建設・施工、設計など全てに携わる今日的なゼネコンを設立し、彼自身、この分野において所謂ジェネラリストを目指していたことがわかります。
 さて、建物というのは、その大きさ、外観で、与える印象が全く異なります。さらに、周囲あるいは社会全体との関係性などを鑑みるとさらに異なる印象を与えることもあります。たとえば、合理主義建築家たちが活躍し建築設計をしたのは、ファシズム体制下のこと。均整のとれたモチーフの単純な繰り返しや、威圧感や権威を象徴するような巨大なアーチなどはファシズムの理念と繋がり、雑然としたものの配置や個人の自由な発想をかきたてるものが排除されたことは想像に難くありません。とりわけ大きな建造物が与える心理的なインパクトを無視することはできません。このような時代に、ネルヴィが設計・施工に携わったローマのベルタ・スタジアムは、現在でもサッカ観戦に使用されています。

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 それでふと浮かんだのが、2020年東京オリンピックに向けてのメインスタジアムの設計に関わる問題です。ネルヴィは1960年ローマ・オリンピックの競技場設計に携わっています。今回の発表では、その際、ネルヴィがどのような理念で建物を設計したのかは説明されませんでしたが、その後に続く1964年の東京オリンピックは、敗戦を経て経済力を回復したことを国内外にアピールする大イベントとなりました。だとしたら、5年後の東京オリンピックは、度重なる大震災を経てもなお不死鳥のように蘇る日本、それを巨大なメインスタジアムで表現しようとしているのでしょうか。もし、そうだとしたら、まるで第二次世界大戦後間もない思想に近い気もします。オリンピック自体が、愛国心を再確認するイベントであることは確かです。けれども、私たちがオリンピック競技を観るとき、国を超えて一つ所に集まったアスリートたちの鍛えられた肉体美や精神に、彼らが命の限りをかけて競技に出場していることに、ただ純粋に心が洗われるような気持ちになることもまた確かです。個人的には、この新しい建物が、「用・強・美」を兼ね備え、都市の一部として近隣住民と密着した建物となること、つまり、スポーツを観戦している時の熱狂と、そのあとの清々しさを人々の心に蘇らせ、長きにわたって地域の人々の健康と健全な精神を育成する場となることを願ってやみません。

 いつも横道に逸れてしまってまとまりがなくなるのですが、今まで知らなかったことを知ることで、日常、何気なく見逃していたことや、考えることを先送りにしていたことを思い出して考え直してみること、それがエコール・ド・東山に参加して得られる機会でもあるということでお許しいただきましょう。


今月のケーキ

一見、カクテルかと思わせる趣向。大人のティラミス。

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今月のお花
フワフワの花びら、楽しい春
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