4月の会のご予約受付中です。内容は次のとおりです。3月の会の報告を後半に追加いたしました。結構な大作なので、読むのが大変かもしれません。来ていただいたお客様には、復習の意味もこめまして読んでいただけましたら幸いです。

第26回 2015年4月11日(土)
14:00~16:00(開場13:30)

死を覚える

――M.ハイデガーの思想から――
松本 直樹
京都大学大学院文学研究科(宗教学専攻)文学博士 / 同志社女子大学非常勤講師
 ヨーロッパには「死を覚えよ(memento mori)」という古い格言がありますが、世の中には、死を見つめて生きることの大切さを説く人もあれば、そんな陰気なことは止めて今を生きようと勧める人もあります。いずれも一理ありそうですが、本当のところはどうなのか、ハイデガーの「死への先駆」という思想を手がかりに考えてみましょう。


ピエール・ルイジ・ネルヴィの挑戦

――建築家とエンジニアという立場から――
木村 智
京都大学大学院 工学研究科 博士後期課程 / 一級建築士
ネルヴィは、ローマのパラッツェット・デッロ・スポルトなど、1960年を中心に数多くの作品を設計したイタリアを代表する建築家・エンジニアです。イタリアでも利用され始めた鉄筋コンクリートという新しい技術をいち早く使いこなしたネルヴィの挑戦、それは工学を極めた構築物なのか、それとも芸術の域に達する建築物なのか。彼の目指した建築家像に迫ります。


[今後の開催予定]
第27回 2015 59日(土)14:0016:00

  ・「日本語にみられる否定の多様性
  機械と人間の境界 ―人造人間ゴーレムの伝説

第28回 
2015 613日(土)14:00
16:00

  ・都市計画 / ・情報処理


第29回 
2015711日(土)14:00
16:00

  ・心理学 / ・教育学

開催場所: ハイアット リージェンシー 京都 地下1Touzanバー
605-0941 京都府京都市東山区三十三間堂廻り644番地2
http://kyoto.regency.hyatt.jp/ja/hotel/our-hotel/map-and-directions.html
ご予約:
各回定員20名 参加料3000円(茶菓子付)
お申込みは、メールまたは電話にてお願いいたします。
電話番号: 090-6662-0360
定員になり次第、受付を終了させていただきます。
どうぞお早目のご予約を!
ecoledetouzan@hotmail.co.jp

□◆□◆□◆□  2015314日の報告  □◆□◆□◆□


「悪」の実践についての試論――ジョルジュ・バタイユの思想から

井岡 詩子

トップバッターは井岡さんで、フランスの思想家、ジョルジュ・バタイユのお話をしてくださいました。バタイユは、20世紀の前半から半ばに、雑誌の編集、秘密結社や社会学研究会を組織するなど、非常に多岐にわたる活動に精を出した思想家です。大学に籍を置くいわゆるアカデミックな人ではありませんが、このバタイユに大きな影響を与えた哲学者が二人います。ニーチェとヘーゲルです。

バタイユの第二次世界大戦中の「幸運」や「賭け」という概念にニーチェの思想の影響がみられます。これらは、キリスト教的救済の概念に抵抗するために使われました。第二次世界大戦中、バタイユはニーチェに心酔しますが、当時はナチスがニーチェの思想を自分たちに好都合であるように歪めて解釈していました。そのようなニーチェの扱いに対して、匿名で異を唱える手紙がフランスから送られていたそうですが、研究者の間ではもっぱらこれはバタイユが送ったものだったのではないかと言われているそうです。ヘーゲルの影響は、第二次世界大戦後から強くなります。中でも特に影響を受けたのがヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」における、人間の歴史の終焉、つまりどのように人間の歴史が完成されるのか、ということを説明しようとする試みでした。バタイユは、そのようなことを問う姿勢をヘーゲルから受け継ぎました。バタイユは呪術的なことや祝祭、エロティシズムなどに関心を持ちましたが、彼はそうした「非日常」にこそ人間の本質が表れていると考えていました。労働、つまり生産活動を営み、生きる糧を得、自身や周りの共同体の繁栄に貢献することが「日常」と定義されるものですが、バタイユにとって「日常」とは何だったのでしょうか。

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バタイユは、非日常に人間の本質を見出していましたので、この歴史の終焉が間近、完成間近の世界においていかに「人間らしく生きる」かを、非日常から導き出そうとしていました。彼は、著書「Théorie de la religion」において、人間らしく生きるのに必要な条件に労働の破壊を挙げています。そして、この破壊こそが「悪」だとしています。バタイユにとっての悪とは何かを理解するために、井岡さんはバタイユのサド論を紹介してくれました。サドは、バタイユが高く評価した人物です。バタイユは意識の完成が歴史の完成であると考えていました。そして、サドこそが、その歴史の完成への道を開いた人物だと捉えていました。サドの著書『ソドムの120日』では、非常に厳しい規律の中で放蕩の限りを尽くす人々が描かれています。内容こそ過激ですが、文章は非常に淡々としており、感情移入できるようなものではありません。

かなり明確な二元論的思想を展開していたバタイユですが(言葉と沈黙・暴力、理性と情念、節度と過剰、etc.)、彼はこれらを「意識に現れるもの」と「意識から逃れるもの」として分類し、この意識から逃れるものが過剰なものであり「悪」であると同時に、だからこそ人間らしいものであると考えていました。そして、こうした観点からサド論を展開し、サドの過剰で「悪」である行為をむしろ「言葉」という理性のフィルターを通して書くという行為、つまり意識から逃れるものを意識に現れるものに入れようとしたということを、非常に高く評価しました。

 バタイユの社会観では、近現代社会は共同体の維持と成長が第一義とされており、意識が完成に近づいた極めて合理的な社会です。しかしそれは同時に、個人が単なる労働に縮減されてしまうということでもあります。それに対し、前近代の封建社会では供儀や祝祭が共同体の成長に歯止めをかけ「朦朧とした意識」を生きる非日常が許容されています。そこで、バタイユが考えるのは、古い時代に立ち返り、意識を逆行させることなく、人間らしく生きるには、どのようにしたらいいのか?ということでした。その方法が、暴力や思念(意識から逃れるもの)を享受するために、言葉や理性(意識に現れるもの)を利用するということ、本来とは異なる目的に使用することでした。ものごとから、その有用性を剥奪してしまう利用の仕方です。

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今日、バタイユのいうような、合理的で実利主義的な社会がますます発展していっているように思われます。そしてその一方で、なにかとても乏しい社会になっていっているのではないかと感じている人は多いのではないでしょうか。井岡さんのお話を通して、なかなか過激ではありますがこうした社会にいて「人間らしく」生きる方法を一つ示してもらえたように思え、非常に考えさせられる発表でした。


城郭のヒューマニズム

白幡 俊輔

次は、ルネッサンス期イタリアの築城術とか技術の歴史について研究されている白幡さんの発表でした。ルネサンスといえばヒューマニズム、「人間」という言葉なしには説明することはできません。日本語では「人文主義」「人間中心主義」「人間性の時代」「人間の解放」などと言われ、人間の精神が自由を得た時代のように、つまり中世における教会の抑圧に対していたかのように捉えられがちです。けれども、本当にそうだったのか?というところから、白幡さんのお話は始まります。
 ルネサンスの科学技術は、科学的根拠や実験に基づくものではなく、二つのものの類似あるいは象徴、つまり同じような形のものであれば同じ動きをするであろうという考えがもとになっているのだそうです。たとえば、ルネサンスの万能人レオナルド・ダ・ヴィンチがデッサンを残した「レオナルドのヘリコプター」という飛行体は、決して我々が知っているヘリコプターと同じ飛行原理に基づくものではなく、古代ギリシアのアルキメデスが発明した用水用のスクリューが発想の源なのだとか。スクリューが水をくみ上げるのと同じように、スクリュー形の飛行体にすることで空気が上に押し上げられ物体も一緒に浮き上がるだろうとレオナルドは考えたというわけです。なんと素朴な…と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、この「類似」と「象徴」というのがルネサンスの科学技術の根本にあって、それは築城術においても同様であったのだということです。 
 

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 ルネサンス期、城塞建築の基礎となったのは古代ローマのマルクス・ウィトルィウス・ポリオが著した『建築十書』で、なかでもシュムメトリアという概念が大切でした。ウィトルィウスの時代、「建築」とは単に建造物を建てたり築いたりすることを意味していたのではなく、パーツを組み合わせて人間が創り出すものすべてを指し、建築物はもちろん、機械、都市なども含めていました。そのなかで、シュムメトリアとは、「ある物体において、その構成部分の間で相互に調和が成立していること」であり、したがって、「あらゆる完璧な物体にはシュムメトリアが見られる」とウィトルィウスは記しました。その例として、人体の美しさが例に挙げられていました。たとえば、我々が理想の身体は八頭身だとか言うように、頭の大きさと体全体であるとか、腕や足の長さ、手のひらや指の長さだとか、各パーツがおよそ比例関係で形作られているからこそ美しさを生みだしている、というわけです。

ところがルネサンスの知識人たちは、これを誤解したようなのです。彼らは、「シュムメトリアとは、人体から比例を取り出すこと」、つまり、人体を基準にすれば完璧な道具、建物、都市などあらゆる美的なものを作り出すことができると理解してしまったらしいのです。皆さんも一度は見たことがあるかもしれない「ウィトルィウス的人体図」に、人間は円や五角形の中心に描かれているのですが、それは、まさにこの誤解を象徴した図像なのだそうです。とにかく人の形を真似すれば完璧なものが創れるということから、15世紀のフランチェスコ・ディ・ジョルジュという人は、都市さえも人の形をもとに設計し、実際に城塞を建てたのだそうです。たとえば、都市を統治する城郭は頭となる部分に、信仰の中心、心の拠り所となる教会は心臓の部分に、人が集まる中心となる広場は臍の辺りに、塔は足のつま先にあたる部分に、という具合です。このように都市は、フランチェスコが設計したように全くヒト形ではなかったにしても、人体から取りだされる円形や五角形に設計されることが多くなったのだということでした。さらに、そこで登場するのが神!神の似姿である人間と同じ形をした都市や城塞は、難攻不落であるのは当然と考えられたのだということです。このように、ウィトルィウスというローマ時代の異教徒の建築理論をキリスト教理論へと置き換え、さらに合理的な理屈をつけ足していったことが、ルネサンス期の知的活動を促し、後の時代の建築の礎にもなったということでした。以上のとおり、ルネサンスのヒューマニズムとは、人間性というより、むしろ単純に人間そのもの、人間を全ての根本として考えているわけで、したがって人間の創造主である神の存在を無視できないこと、人間と神=キリスト教を切り離して考えることはできないのだとまとめてくださいました。

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印象的だったのは、ルネサンスの建築術が古代の書物を誤解したことに始まり、そこにさらに理屈付けをしたことのみならず、ウィトルウィウスが、気候や地形を考慮し、住人にとって快適で健康的で安全で、そして生産性も高い都市を理想にしていたことです。3・11で破壊された東北の海岸線の市街地は戦後の産物で、それまで役所など街の中枢機能となる建物や住居は、高台にあったということを思い出したからです。それまでも度々高潮や津波に襲われていた地域では、海岸に近い地域に住んだり生産活動をしたりすることは考えられなかったのです。それが、戦後になって生産性が優先され、あらゆるものが平地におりてきたわけです。ここで、先の井岡さんが説明してくださったバタイユの考えが思い出されます。合理性や実利だけが重視された結果が、今回の惨事を招いたともいえるからです。実際、神社仏閣は高台にあって、その多くが被害を免れました。バタイユが言ったように供儀や祝祭に関わるもの、現代では非日常と化したものが残ったのです。合理性や実利優先によってもたらされた富や利便を我々は享受してきたわけですから、すべてを否定することはできません。けれども、復興に際しては、先達の思想も参考にして、自然と共存し、快適・健康・安全を重視したうえで、発展していく都市を築いていけたら本当に理想なのだが…と思いました。

さて、白幡さんは、築城術だけでなく、戦術や武器についても詳しく、昨年、NHK BSプレミアムの「プロファイラー」という番組にもゲスト出演され、ジャンヌ・ダルクの時代のフランスの戦術についてお話をされました。機会があれば、フランスやドイツのお城について、また、日本では姫路城が修復を終えて真っ白な姿で再お目見えしたばかりですから日本のお城についてもお話いただきたく思いました。

今月のケーキ
 「イチゴ風味のライムムース(ひまわりの蜂蜜クリーム)マンゴーソース」
春のイメージ

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今月のお花
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