5月の回もたくさんの方々にお越しいただき、ありがとうございました。ブログの後半に報告を載せています。
さて、エコール・ド・東山は、7月をもちまして開催を終了いたします。3年間、たくさんのお客様にお越しいただきましたことに感謝いたします。まだお越しいただいていない皆様、6月・7月と二回ございます。ぜひ、ご参加ください。
6月13日土曜日のご案内です。ひとつめは、1970年代日本の都市計画について。万国博覧会から紐解きます。もうひとつは、情報処理の観点から、人間と機械の共存について考えます。詳しくは次のとおりです。

西山夘三と1970年日本万国博覧会

――未来都市のコアモデル――

アンドレア・フロレス・ウルシマ

京都大学 博士(人間・環境学)

京都大学 地域研究統合情報センター研究員

1970年に開催された日本万国博覧会の会場計画には、京都大学の名誉教授、西山卯三が重要な役割を果たしました。本発表 では、彼が作成した原案「未来都市のモデルコア」と計画の過程を詳細に見てゆくことで、西山の60年代の都市計画思想を読み 解き、彼が万博会場計画に及ぼした影響について考えます。


機械と人はどう共存していくのか

――統計的機械学習入門――

則 のぞみ

京都大学大学院 情報学研究科 知能情報学専攻 博士課程

学術振興会特別研究員

近年様々な場面で、ビッグデータと呼ばれるような大量のデータを活用する情報処理技術が利用されるようになりました。それらの情報処理には人工知能の技術が用いられています。本発表では、その中でも最も活発な研究分野である統計的機械学習を紹介しながら、機械と人がどのように共存できるのか、そんな世界がありえるのかを考えてみたいと思います。

開催日: 2015年6月13日土曜日 14:00~16:00(開場13:30)

開催場所: ハイアット リージェンシー 京都 地下1Touzanバー
605-0941 京都府京都市東山区三十三間堂廻り644番地2
http://kyoto.regency.hyatt.jp/ja/hotel/our-hotel/map-and-directions.html
ご予約:
各回定員20名 参加料3000円(茶菓子付)
お申込みは、メールまたは電話にてお願いいたします。
電話番号: 090-6662-0360
定員になり次第、受付を終了させていただきます。
どうぞお早目のご予約を!
ecoledetouzan@hotmail.co.jp

7月開催日: 2015年7月11日土曜日 14:00~16:00(開場13:30)

内容: 文化人類学(日本)と心理学の予定です。


   ◇■◇■◇5月の報告◇■◇■◇   

機械と人間の境界――人造人間ゴーレムの伝説――

中岡 翔子


さて、エコール第27回、最初の発表者は中岡祥子さんでした。

ドイツ文学を専攻されているそうですが、今回はそれとは少し違った、人造人間としての「ゴーレム」についてお話しくださいました。古代ヘブライ語から来たこの言葉の、旧約聖書での登場から今日までの変容をとても興味深い形で網羅的に説明してくださいました。

最初のロボットの小説というのは、20世紀初めに書かれたチェコの小説『R.U.R』だそうです。ここで出てくるロボットの下地には「ゴーレム」の存在がありました。この「ゴーレム」は本来ヘブライ語ではサナギですとか幼虫という意味を持っていたそうです(今日でも使われるそうです)。その言葉は、旧約聖書の詩篇で初めて「不完全な」という意味合いを持つ言葉として出てくるのだそうです。それが、20世紀の東欧の小説ではいつの間にか「人造人間」やロボットまで変貌を遂げるのです。なぜこのように変化していったのでしょうか?

IMG_0002
元々キリスト教世界では土から神が人間を作った、と信じられていました。そこで、人間も神のように、人間のような存在を創り出す能力を受け継いでいるのではないか、というような考えが出てきたそうです。人間によって創り出される存在「ゴーレム」は時としては下僕になるなど、扱いの形は変容しました。20世紀のプラハでは、放浪の民で安住の地を持たないユダヤ人を守る存在として受け継がれていました。こうした逸話が流布し、グリム兄弟がゴーレムを紹介するなどして、東欧でゴーレム伝説が形成されていきました。ユダヤ人の間では、主に思いあがった人間のあり方を描きだすものでした。しかし、この伝承がキリスト教社会に広まるにつれ、その技術面の発展が注目されるようになります。

ここまでの中岡さんのお話を聞きながら、人間の普遍的な性みたいなものについて思いを巡らせていました。人間はどんどん物を作ります。あるいは、自らが制御できる範囲を優に超えているものも、危険性から目を背けて作り続けます。そしてそれが脅威になる、というパターンはまさしく昨今の原発問題を彷彿とします。全くもって新しくもなんともないパターンなのだ、と複雑な気分で思わざるを得ませんでした。同時に、旧約聖書の、バビロンの塔の話も思いだされました(人間の思い上がりに対する神の制裁の話です)。

中岡さんのお話に戻しますが、この伝承が技術面に着目する形で広まっていったのは、19世紀以降、科学革命を経て社会の関心が技術の革新に向けられるようになっていたからだそうです。中世末期以降、魔術と科学が明確に分けられるようになりました(元来、魔術は人間が起こすものであるのに対し、奇跡は神が起こすものでした)。この「科学」が科学たる根拠は三点あります:普遍性、客観性、合理性です。

そうした中で、「人間機械論」という考え方が生まれてきます。機械論とは、自然物や事象の構造や発生を精神的に説明するのではなく、メカニカルに捉えることです。こうした考えが人間存在そのものにも敷衍して考えられるようになり、人間は自らぜんまいを巻き、半永久的に動く存在であるという考えが出てきました。中岡さんは、この「人間機械論」から派生した例として、機械仕掛けの排泄するアヒル(1793年)や、オルガンを弾く貴婦人(1774年)などのぜんまい仕掛けの自動人形のお話をしてくださいました。

人間の創造物である、という意味においてはゴーレムに通ずるこうした物の表象は、文学作品の中でもたくさん見られます。これらの創造物が私たち人間や動植物と決定的に異なるのは、自然な生殖による産物でないということです。既に完成された、創り上げられた状態で世に出現します。そのため、当然そこには「死」がありません。こうした「誕生」と「死」の欠落は、同時に生命そのものを軽んじるものではないか、という問題も孕んでいます。このお話を伺いながら、近年の医学の著しい発達のおかげで、様々な形での出産が可能になりましたが(例えば、子供を望めない人が代理母による出産)、それにつれ、様々な倫理的問題も膨れ上がってきているということを思いだしました。

どこまで生命に手を加えて良いのかは、非常に複雑で中々にみんなが一致するような答えの出ない問題ですが、機械工学がどこまで人間の生命や生命活動に介入していってもいいものか、というのも難しい問題です。中岡さんの見せてくださった映像で衝撃的だったのが、石黒浩さんのチームが作り上げたジェミノイドです。パッと見たところ、人間そのものに見えるようなロボットです。そしてのそのロボットは、会話の受け答えまでしてくれるのです。その精巧さには度肝を抜かれましたが、でも少し見ていますと、やはり違和感が生じてきます。これまた強烈に「人間ではない」というレッテルを張りたくなります。しかしそうしたレッテルを張りたくなるのも、あまりに人間に近いものだと感じ、それを正面から否定することにより、安心したいのかもしれません。いずれにしましても、夢物語のように思っていたアンドロイドやロボットの世界が、実はそう遠くない未来まで来ているのだと感じました。いかに人間らしく見せるかを追求したロボットですが、実際に平田オリザと舞台を作ってもいるそうです!生身の人間とプログラミングされた機械の掛け合いは非常に見てみたいところです。

IMG_0007
こうしたロボット工学では、人間の心という曖昧なものは度外視したところで、人間に近づける方法を考えて作製されます。しかしながら「こころ」の問題は、サブカルチャーにおいては非常に重要な位置を占めています。日本のサブカルチャーにも数多くのゴーレムが出現します(ドラゴンクエスト、パズ&ドラゴンの携帯ゲームの人気キャラクターなど)。『風の谷のナウシカ』や『エヴァンゲリオン』に出てくるゴーレムは成人し、完成された「人間」ではない存在として、「無垢」や「子供」の概念と引きつけて考えられています。それらの作品は、人間の創造物と自然の産物である人間の共存のあり方を模索しています。非常に興味深いと感じたのは、そしてまた、それが中岡さんの今回のお話のコアでもあったと思うのですが、こうしたある意味とても近代的な問題だと思われがちはテーマが、紀元前の時代から本質的に変わることなく問われ続けているということです。そしてその問いに、現代の社会がどのような答えを出していくのか、気になるところです。


日本語にみられる否定の多様性

久保 圭


次の発表者の久保圭さんは、京都大学の博士課程で言語学を研究されました。久保さんによると、この「言語学」という学問、どうも誤解を生みやすいようでして、「外国語をいくつも話せるの?」などと尋ねられる事が多いとのこと。そこで、日本語の研究をしているのだと説明をすると、今度は、「日本人なのに日本語がわからないの?」と訝しげな視線を浴びたりもするそうなのです。

そんな数々の誤解を生んでいる言語学の意義とは、久保さん曰く、「同じにみえるけれど、実は違っている」ような、いつの間にか直感で区別しているような、「ぼやっとした言語の感覚」を明確にするところにあるそうです。たとえば、と言って久保さんはこんな例を挙げてくださいました。

問:「泥だらけの靴」と「泥まみれの靴」どう違う?

(一応)日本語ネイティブ(のはず)の我々には、どちらも違和感がない表現ですが、でも、わざわざ違う言葉が存在するという事は、何か違いがあるはず…!(というのが、言語学の基本的な考え方なんだそうです。その根拠の1つとなっているのが、言葉は楽な方に流れやすく、したがって同じ意味を持つ言葉は一番使い勝手の良い語に吸収されてしまいがちという性質にあるそうです。)

何が違うのか、首を傾げておりましたら、我々は案外使い分けをキッチリしているようです…!というのも、久保さんが三種の例をあげてくださったから判明したわけなのですが、そのうちの二つをご紹介します。

1)連休中京都は車だらけだった

2)連休中京都は車まみれだった

→2は気持ち悪い

1)汗だらけの男

2)汗まみれの男

→どちらでもOKかも…

どうでしょうか。同じように感じられましたか?

こういった使い分けを数々分析してみると、どうやら我々は知らず知らずのうちに、

「〜だらけ」…点的に感じるものでいっぱいになる

「〜まみれ」…液体などで全体が覆われている

といった使い分けをしているようです…!普段「意識しないで」使っている日本語も、よくよく考えると難しいことがわかりました。

IMG_0014
なるほど「言語学」という学問、なんだかスッキリする気がします…!この学問の奥深さの一端を、今回、久保さんの主たる研究の中心である、「不」「無」「非」「未」という日本語の4つの「否定接頭辞」を使って私達に案内してくださいました。すべて「〜ない」という意味を付与する接頭辞ですが、久保さん曰く「ことばひとつ、意味ひとつ」。同じに見えても、別の表現ということは、何かが違うはずなのです…!しかも、その直感を我々は日々駆使しながら生きているのですから、この直感の中身が判明できれば、「人間とはなにか」という問いに少しは近づけるのかもしれないと久保さんは、まるで言語学そのもののような飛躍的な展開をされました。

コップの水が、「半分しかない」のか、「半分もある」のか。

このような表現ひとつひとつが、私達人間を形作っているのだと久保さんは言います。

直前の中岡さんの「人は機械なんだろうか」「機械は人になれるのだろうか」という問いかけとを考え合わせると、学問とは、結局、様々な方向から人の存在を追求してゆくものなのだろうか…という思いにかられます。

IMG_0015
そんなことを考えながら、次回6月の発表を思うと、更に複雑な人の存在の可能性が見えてくるような気がしてきました…!
今月のケーキ
IMG_0008