次回のエコール・ド・東山は、2014年6月14日(土)14:00からです。

理学療法士の養成と芸術を社会的な観点からみるという全く異なる二つのトピックです。
エコール・ド・東山で気づいたのですが、全く違う研究内容でも、最終的には学術研究という意味では一つのところに収斂することが多いのです。 さて、今回はどうでしょうか。


理学療法士養成における実践的専門能力の形成

―医療の心と技を学ぶ―

平山  朋子

京都大学大学院 教育学研究科 博士後期課程研究指導認定退学

藍野大学医療保健学部理学療法学科 准教授
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リハビリテーションを担う理学療法士は、病気や怪我で心身ともに傷ついた人たちを支援する専門職です。医療従事者の一員として、「確かな知識」「優れた技術」「高い倫理観」を持ち「信頼できる」専門家に、学生たちをどのように育てていくのか。医療の心と技を伝える教育とその学びの実例をお話します。
 

芸術の検閲が意味すること

田中  一孝

京都大学博士(文学)

京都大学高等教育研究開発推進センター 特定助教

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芸術はいろんな理由で権力から規制を受けます。やれ猥褻だ、やれ政治的だ、やれ若者に悪影響だってわけです。これに対して「芸術と政治を一緒にするな!」「表現の自由を!」と反論することができます。逆説的ですが、芸術を規制しようとする人たちの方が、芸術を高く評価しているように私には見えます。そのことを説明します。

開催場所:

ハイアット リージェンシー 京都 地下1Touzanバー
605-0941 京都府京都市東山区三十三間堂廻り644番地2
http://kyoto.regency.hyatt.jp/ja/hotel/our-hotel/map-and-directions.html
ご予約:
各回定員20名 参加料3000円(茶菓子付)
お申込みは、メールまたは電話にてお願いいたします。
電話番号: 090-6662-0360
定員になり次第、受付を終了させていただきます。
どうぞお早目のご予約を!
ecoledetouzan@hotmail.co.jp




◆◇◆◇第17回(2014510日)の報告◆◇◆◇

更新がすごく遅くなりました。大変申し訳ありません。前回のお話の報告です。

今回は発表者がお二人とも日本文学について話してくださり、重層的で濃い内容となりました。まず一人目の発表者である四方さんが、田山花袋の『蒲団』を中心に、日本近代文学の形成について話してくださりました。その次に、稲垣足穂の文学作品『弥勒』の世界観について旦部さんが話してくださいました。
 

告白と小説:田山花袋『蒲団』から紐解く日本近現代文学研究

四方朱子
京都大学大学院人間・環境学研究科 研修員 満期修了
京都大学学際融合教育研究推進センター 研究支援員/ 技術補佐員
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多かれ少なかれ私たちはみな馴染みのある「文学」。そこで四方さんは、まず、文学研究をするに至った彼女自身の少し特異な経緯を話してくださいました。

四方さんは高校をアメリカで卒業し、コーネル大学で天文学を専攻する理系少女でした。そこで偶然、明治期の文学の授業をとることになり、文学に開眼されたそうです。そして大学で知り合った先生の下で更に勉強するために、それまでのアメリカでの生活を後にして北海道大学に入学されました。驚くべき熱意と行動力です!

今回話してくださったのは、なぜこの『蒲団』という作品が、文学史的に無視のできない作品になったのか、ということです。

近代文学の特徴として、等身大の小説を求める傾向が挙げられます。このことには関しては、前回木島さんがディケンズ等のイギリス作家を通して詳しく話してくださいました。こうした傾向は、西洋社会の変化の中で芽吹いてきたものでしたが、明治維新以降鎖国を解いた日本は、こうした変化を急速に吸収しなくてはなりませんでした。近代の発明だとすら言われる「文学」は、西洋の伝統的な大学で教えられるようになったのも近代以降です。それに対し、日本では東京大学設立当初から「文学部」が設置され、戯作文学、政治文学、翻訳文学が教えられたそうです。

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しかし今日「文学」といいますと、まずは小説を思います。これは明治期の文人、坪内逍遥の『小説神髄』以降、の傾向だそうです。それではどのような作家がどのような作品を執筆し、活躍したのでしょうか。坪内逍遥の著書に影響を受け、執筆されたのが二葉亭四迷の『浮雲』です。この作品には、読点はありますが句点はありませんでした。一見古風にみえる文体ですが、実は〈参った。〉や〈ある。〉という文末を使った初めての小説で、当時にしてはとても新しい手法を使って書かれているそうです。これは、二葉亭四迷が落語家の噺を聞き、その話し言葉から着想を得たものでした。そこから、より口語体に近い文体で書かれた作品が増えてくるようになります。しかし一朝一夕で変わったのかといいますと、そういうわけでもなかったみたいです。同時代の作家、森鴎外も当初の文語体から口語体に移行するまでに20年もの時間をかけたようですし、女流作家、樋口一葉も口語体を使って作品を執筆していませんでした。尾崎紅葉の『金色夜叉』では句読点の使用がみられるようになります(最近では、西洋文学に通じていた尾崎が、作品の構想をバーサクレイという大衆文学の作家に得ていたということが明らかになったそうです)。

それでは『蒲団』とはどのように位置づけられる作品なのでしょうか。この作品は初めて三人称で書かれた小説でした。しかしこの三人称が用いられるのは主人公、時雄にのみですので、実際には限りなく固有名詞に近い形で使われています。また、時雄の(ちょっと気持ち悪い?)妄想がかなり文字化されており、感情がここまで赤裸々に書き出されるのも初めてでした。

この作品に登場する人物には、それぞれモデルが実在しました。そうしたことも含め、この作品はその執筆技巧以上に、作者の勇気が称えられました。作品は、作者の醜悪な内面や性欲などをさらけ出す場として捉えられるようになっていったのです。そうした作家の代表例が芥川や夏目漱石です。もちろん、世に名が轟くと、それを批判する人々も出てきます(ここでも前回の木島さんが話してくださったディケンズ批判が思い出されます)。

森鴎外の作品と並んで、こうした内面の暴露を称賛する評価がある一方で、でばがめ主義だという批判も現れます。しかし今日でも、作者というのは自身をさらけ出すものであるという考え方は残っています。むしろ今日問われるのは、『蒲団』で作者は本当に自身を曝け出したのだろうか、どこまで本音であったのか、あるいは意図された計算のもとに描き出された内面ではなかったのか、という観点になっています。

四方さんの発表を聞きながら「内面」というものの捉えどころのなさに思いを馳せていました。また、だからこそ同じ作品を読んでいても、時代により解釈や疑問点が異なり、小説をはじめとする文学は私たちの心を捉えてやまないのでしょう。