次回のエコール・ド・東山は、412日土曜日14:00から開催します。
内容は、看護学の現象学的研究!? そして、文学と絵画についてのお話、詳しくは次のとおりです。
 

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重度意識障害の状態にあるAくんの生活

亀田 直子

京都大学大学院 医学研究科 成育看護学分野 博士後期課程

摂南大学 看護学部 小児看護学特任助教

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ケアに携わる家族、看護師、医師、養護学校教諭、生活支援員らが、それぞれの立場で断片的に観察し記録したことから捉えられることには限りがあります。真に患者に寄り添うには、その人の実存に迫らねばなりません。科学と非科学、主観と客観をも同じ次元で扱う現象学的研究の具体例をご説明します。

イギリス文学とオランダ絵画

 19世紀イギリスにおけるリアリズム文学とジャンル画の関係について―

木島 菜菜子

京都大学大学院 文学研究科 博士後期課程満期修了 現大谷大学助教

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19世紀イギリスに発展したいわゆるリアリズム小説、それは現実の社会を忠実に描き出そうとするものでした。そうした小説を 書いた作家たちが共感を抱いたのは16世紀のオランダに誕生した日常生活を主題としたジャンル画です。時代を代表する作家ディケンズとジョージ・エリオットの具体的な作品をとりあげて考えます。

開催場所:
ハイアット リージェンシー 京都 地下1Touzanバー
605-0941 京都府京都市東山区三十三間堂廻り644番地2
http://kyoto.regency.hyatt.jp/ja/hotel/our-hotel/map-and-directions.html
ご予約:
各回定員20名 参加料3000円(茶菓子付)
お申込みは、メールまたは電話にてお願いいたします。
電話番号: 090-6662-0360
定員になり次第、受付を終了させていただきます。
どうぞお早目のご予約を!
ecoledetouzan@hotmail.co.jp

15回≪2014年3月8日≫の報告
今回は、エコール・ド・東山、記念すべき15回目でした!ここまで続いているのも、いつも来てくださる皆様のおかげです。また、今回初めて来てくださった方も多く、スタッフ一同、ますます盛り上げていきたい、楽しい集いにしていきたいと改めて感じた回となりました。
発表してくださったのは、小松さんと福田さんで、それぞれ美術と哲学のお話でした。イタリアの不思議な画家アルチンボルドと、プラトンとソクラテスの「知」をめぐるギリシア哲学についてです。
ジュゼッペ・アルチンボルド《ウェルトゥムヌス》と同時代人の詩人たち
小松 浩之
(京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程 日本学術振興会特別研究員DC2
小松さんの専門は西洋美術史・美術批評史。特にイタリアの十六、十七世紀の絵画です。その彼が今回紹介してくれたのが、ジュゼッペ・アルチンボルドの絵画と、彼の作品を謳った詩でした。

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アルチンボルドは、16世紀後半に生きたイタリア人画家で、主にハプスブルグ家の宮廷で活躍しました。彼は様々な肖像画を残しているのですが、それらはよく見ると花々や野菜、あるいは魚介類や甲殻類といった海の生物などの絵によって構成されています。つまり、作品の全体を眺めると人物が見えるのに、その細部を見ていくと全く異なるものが見えてくるのです。こうしただまし絵といいますか、二重の意味を持った絵画というのは確かに20世紀のシュールレアリスム絵画を思い出させますが、それもそのはず、なんと忘れかけられていたアルチンボルドを再評価したのがシュールレアリストたちだったそうです。
また、今日の私たちも、特に印象派の絵画を鑑賞するときなどには、ついつい近づいて眺めてみたり、遠くから眺めてみたりしますが、こうした鑑賞法は16世紀当時から楽しまれてきたことだったのですね。
こうした作品の鑑賞経験の、16世紀当時と今日の差、あるいは共通点を通して、「現在の鑑賞の仕方をより豊かにできないだろうか」という問いから浮かび上がってくるのが、絵画のもつ「声」でした。私たちは絵画を鑑賞する際に、セリフを宛がってみたり、何か話しかけてきているのだと想像を働かせることがあります。実は16世紀の詩人たちも絵画が話しているという形式で、多くの詩を残したそうです。なかでもアルチンボルドのヴェルトゥムヌス(ルドルフ二世)には、多くの詩人が詩をささげ、アンソロジーまで出ているそうです。ヴェルトゥムヌスは当時の皇帝ルドルフ二世を、ギリシアの神であるヴェルトゥムヌスに見立てて描いたものだそうですが、ともするとカリカチュアのようであるこの作品を、皇帝本人がいたく気に入っていたらしいことには驚きました。
別の作品フローラ≫についても、詩は一人称で書かれ、あたかも鑑賞している人に話しかけているかのような形式をとっています。確かに作品を眺めながらそれぞれの詩を読むと、かなり雄弁に訴えかけてくるように思われます。このように当時の人々は、作品の前に立ち様々な想像を巡らせました。私たちも同じように作品の前に立ち、ああでもない、こうでもない、と声をあてはめたり、鑑賞者同志で語りあったり、描かれた人物?!に思わず話しかけたりしてみたくなります。ところが今日、作品を鑑賞する場である美術館では、基本的に「静かに」鑑賞することがルールのようになっています。けれども、作品が様々な「声」を持っていると考えたとき、もうすこし賑やかな場所であってもよいのではないでしょうか。こうした今日の鑑賞方法に対して、小松君 は「言葉」を持ち、直接「話しかけてくる」アルチンボルドの作品を通して、改めて考えさせてくれました。

また、エコールに来てくださっている「ちー」さん(ブログ名)が、アルチンボルドと歌川国芳の面白い比較を自身のブログでされています。
http://chee.ch/diary/2014030800/1.shtml#a010103

確かに、こちらのテーマ、非常に興味深く、どんどん掘り下げていけそうです。

「哲学」とは何か?―ソクラテスとプラトンを手がかりに
福田 宗太郎

(京都大学大学院 文学研究科 西洋古代哲学史研究室 博士後期課程2年)

お次は、普段は体育大学で教鞭をとっておられる福田さん。哲学とは何か、なぜ哲学史を学ぶのかという、なにやら難しそうなテーマを、古代ギリシアの哲学者、ソクラテスとプラトンを足掛かりに丁寧かつわかりやすくお話ししてくださいました。

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そもそも、なぜ「哲学」という学問がピンとこないのでしょうか。それは経済学なら「経済」、政治学なら「政治」というように、対象とする学問の現象が明確なのに対し、哲学の「哲」の内容はさほど明確ではないからだ、という導入には、単純ですが目から鱗が落ちました。確かに、分かりにくいですね。ギリシア語の「智恵を願い、望む」という意味であるフィロソフィアは日本語でまず「希哲学」と訳されました。

しかし「智恵を願い、望む」ということでしたら、あらゆる学問に共通します。それでは哲学とは、どのような問いをすることなのでしょうか?具体的な例として、福田さんが挙げたのが、「どのように生きるべきなのか」、「なにかが存在するってどういうこと?」、そして「知っていることと信じていることは何が違うの?」などという問いでした。うーん、なるほど確かにどれも一度は疑問に思ったことのある問いばかりですね。そしてどれもが、一つの学問領域に収まる問いではなく、横断的です。

それではどのようにこうした難問に答えていけばよいのでしょうか。紀元前5世紀に生きたソクラテスは「無知の知」を出発点にしました。彼は「ソクラテス以上の知者はいない」という神託を受けたそうです。そこで、自身は何も知らない、無知だと自覚していたソクラテスは、一般的に知者とされる様々な人と対話をすることで、彼ら自身もまた無知であることに気づいていないということに気づきました。そこで、ソクラテスはもし信託のように自分が知者であるなら、それはせめて無知を自覚しているという意味での「知者」だという考えに行きつきました。無知を自覚した上で、智を求める活動を行ったのです。その方法が、勇敢、節度などの徳を題材にした対話形式での知の探究でした。対話の際に設けたルールは、「自分の信じていることを話す」、「一問一答」でした。そうすることにより、自身の信念の矛盾に気づき(無知の知)、より根本から問題を考えることが可能となります。

プラトンはこうした対話の形式を著作の中で受け継いでいます。けれども、ソクラテスが相手を面前に置いて対話していたのに対し、プラトンは書かれた言葉を読み、そこから考えさせ答えを導き出させる方法をとっています。

福田さんは、哲学史を勉強する理由を、「過去の哲学者の見解を明らかにすることを通じて、我々自身の思考を完成する」ことだとおっしゃいました。それを聞いて、一問一答から問いを立てていくと、私の思考が出来上がるまでに膨大な時間がかかるだろうな、一生分では足りないだろうな、とか、それ以前に無知を知ってしまったら、それはすでにもう無知ではないのではないか、などという思想の中でさっそく迷子になっていました。

最後に、小松君の発表の後に参加者から「このような研究をしてなにが面白いのか、一生を棒に振るんじゃないか」といった質問が出ました。それは言い換えると、「このような研究をしてなんの役に立つのか」という問いに繋がってくるのではないかと思いました。この問いは非常に根本的であると同時に、一言ではなかなか片づけられない難しい質問です。好きか高じて、もしくは個人的な疑問に端を発して研究に没頭している人々も多いかと思いますが、その研究には社会的意義がある、あるいは社会に貢献すると感じて(信じて?)ここまで続けてきているのも事実ではなかろうかと思います。

特に文系の研究者にとっては、容易に答えの出ない問いであることが多いがゆえに、研究を進めていく上で私たち全員に付きまとう疑問です。ただ、小松君の話してくださった16世紀の絵画経験の理解は、今日の私たちの絵画経験を豊かにしてくれるものであると同時に、私たち自身の「ものの見方」をより深く理解させてくれました。それは、引いては現在の私たちのものの味方をよりよく理解すること、更には私たち自身のよりよい理解につながるのではないかと感じました。あるいはまた、福田さんのおっしゃったように、「分からない」「知らない」ということを常に考えていくことが大事なのかもしれませんね。

 

今月のケーキ

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旬の苺のショートケーキとピスタチオのソース。ピンクと緑の春らしい色合いが食欲をそそりました。