昨年11月から始まったエコール・ド・東山も、7月で第一期を終了することになりました。この会を催すにあたっての、ゲストの皆さん、スピーカーの皆さん、ホテルとバーの皆さんのご協力に感謝するばかりです。8月・9月は夏休み。10月から再開いたします。話題は、ますます豊富になっていますよ。1月までの予定は次のとおりです。

2013年10月12日(土) 無機物質科学(マシュマロゲル)/有機デバイス

2013年11月 9日(土) 現代美術(ジャクソン・ポロック)/日伊交流史(慶長遣欧使節)

2013年12月14日(土) 京都学派2/現代美術(ルネ・マグリット)

2014年 1月11日(土) 動物生態学(イルカ)/動物生態学(インド象)


その後の開催日は、

2月15日、3月15日、4月19日、5月17日、6月21日、7月19日
いずれも土曜14:00~16:00(13:30開場)です。
詳しい内容については、近日中にお知らせいたします!ご予約は随時受付中です。

開催場所 ハイアット リージェンシー 京都 地下1階Touzanバー

各回定員20名 参加料3000円(茶菓子付)

お申込みは、メールまたはお電話にてお願いいたします。

ecoledetouzan@hotmail.co.jp 電話番号: 090-6662-0360

定員になり次第、受付を終了させていただきます。ご予約はお早めに!

☆第九回報告

さて、7月20日第9回の報告です。徒然なるままに記した、あくまでも個人的な感想文です
「消えた反物質」 by増田孝彦
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「いやあ、反物質の話は、面白かったねえ……難しいけど、あれは、絶対に科学では解明できない範疇のものですよ。見つけたら、即ノーベル賞だと言っていたけど、見つからないだろうね。うん。でも、反物質は科学の網に引っ掛からないけど、あるよ。あるんだよ。ただ、科学ではだめだ。それを思うと面白くてね。」そして、「エコールは、思いがけない話が聞けるから面白い」、こうおっしゃるのは、全九回皆勤賞の方。
「反物質は幽霊か影」というのは印象を受けたという人も。

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私はといえば、「何を聴いていたのだろうか、何か理解しただろうか…」と、ただ??が渦巻く頭を抱えて帰宅。とりあえず今日の新聞にのっていたというニュートリノについての記事を「見てみる」ことに。おっ、Ve
Vμ、この記号、たしか今日見せてもらったスライドにあったぞ。素粒子の構成要素であるレプトンでしたっけ?う~む、この記事だけ読んでみてもさっぱりわからない。
 そこで、「ニュートリノ」「反物質」をインターネットで検索。増田さんの話やスライドを思い出しながら、説明を読んでみる。やはり全部は理解できないけれど、「CP対称性の破れ」を検索して読みながら、なんだか少しわかってきたような…もうちょっと調べてみたいような気持ちになっていることに気付く。その欲望を抑えて、先の二人のように自分なりの「反物質」を考えてみる。

    「物質、反物質」を「生成、消滅」「見えるもの、見えないもの」と考えると…哲学的だ。

    「生と死」?…それなら宗教的でもある。鏡の前に立った物質である私、鏡の中の自分が反物質だったとしたら、次の瞬間にはもう消滅していくのか…。「影」もそうだな、自分から伸びる影がなかったらどうだろう…。肉体をもたない、だから影もなくて、その存在が確認できない、しかし確かにあったもの、それは、神の領域に近い。

    言語で考えるならこうだ。”Here I am.”「私はここにいる」と、物質である私は、その存在を宣言している。 “I was here.” 「私という物質が確かに、ここに存在していた」という存在証明である。be動詞amの過去形wasがしっくりくる。私という物質が生成した一方で、同時に生まれたのにすぐに消滅してしまっている反物質の私はどうだろう。そう、「私が反物質だったならば」という仮定法の域に入る。”If I were an antimatter,・・・” be動詞areの過去形wereは正しくはyou「あなた」の後にくるものだ。それが、Iの後に現れる。私の存在は極めて危うい。

こんなふうに考えてみると面白い。固まりかけていた脳がほどけてきたようで、科学はロマン?…そう思えてきた。


「19世紀末フランスの女性誌にみる家庭教育像」by井岡瑞日
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 従来言われてきたフランス家庭教育史における図式を解体、19世紀の資料をもとに井岡さんの考えが鮮やかに紡ぎだされる発表内容。
 さて、歴史が生み出されるとき、反物質ならぬ「反歴史」があって、それがもし残っていたら、歴史の謎は一挙に解決!?あるいは人の手によって書き記された隠ぺいや書き換えも明らかになるのではないか…と…、勝手に何でも「反物質」に繋げんでもよろしい!という声が聞こえる…。はい。

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 井岡さんの発表で印象に残ったのは、19世紀以前の教育における「母親の不在」について。
そこで、なんとなく浮かんできたのが『アルプスの少女ハイジ』のハイジとクララ、そして『赤毛のアン』のアンだ。ご存じのとおり、ハイジとクララはスイスの山村とフランクフルトで、アンはカナダのプリンスエドワード島で少女時代を過ごし、成長する。これら二つのお話には、いくつかの共通項がある。

  それぞれの成長において「母親は不在」
三人の母親は、いずれも亡くなっていて登場しない。少女たちが母親を回想したり恋しがったりするといったシーンは無かったか、あったとしても、さしたる感情とりわけ感傷を伴うことなく事実のみが淡々と述べられていたというような、その程度のものだったように記憶する。ロッテンマイヤー女史はクララやハイジの家庭教師でしかない、グリーンゲイブルズのマリラは母親的な存在というよりアンの良き理解者である。ロッテンマイヤーもマリラも、独身だ。

  主人公の成長において重要な役割を果たす独身男性の存在
アルプスではハイジの祖父、フランクフルトではクララの父、プリンスエドワード島ではマシュー。あ~『小公女』のセーラにも母親はいなかったなぁ。で、やはり富豪の父の存在がセーラの人生を左右する。ここからはセーラも加えよう。

  小説が書かれた時代
『ハイジ』は1880-81年、『小公女』1888年、『赤毛のアン』は1908年。アンは20世紀に入ってはいるけれど、およそ同時代といってよい。フランスで、家庭での母親教育が社会的に広まった時代と重なっている。

  作者  いずれも女性

  続編  『小公女』以外の二作には続編がある。ハイジのは別の作家が書いているようだけれど。

  主人公の職業
アンが教師になったことは知っていたが、ハイジも続編で教師になっているらしい。

 ……で、何が言いたいのか?発表内容と関係ないですよね。ええと、井岡さんのお話をきっかけに、思いがけず自分が少女時代に読んだ小説を思い出し、これら少女の成長を描いた19世紀末から20世紀初頭の小説に共通点を見つけて、書かれた背景だとか、女性の作家の役割とかをもうちょっと調べてみたくなったこと、それをお伝えしたかったのです。
   先の皆勤賞の方が「エコールは、思いがけない話が聞けるから面白い」とおっしゃるように、考えもしなかった何かについて、ちょっと頭をひねってみる…そこから何かを発見し自分なりの発見や発想をする…そういう場を今後も、ゲストの皆様やスピーカーの研究者の皆さんに提供できて、共に学ぶ機会がますます増えればよいな、と思うのでした。
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さて、今回のデザートは、トロピカルフルーツがカラフルにちりばめられたココナッツ風味のケーキでした。
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そして、ホテルのレセプションにあるお花もやはり南国原産のカラー。先月はオレンジのカラーだけだったのが、ブラックベリー?があしらわれている。その意外なとりあわせに、ハッとさせられませんか?人工的なオレンジの花は黒いベリーに囲まれてちょっと老練な印象を、一方、緑や赤の若い実がたくさん結実している手前のベリーはワイルドな生命力が感じられるアレンジ。それでは、また10月に。